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060 小式部内侍 大江山

小式部内侍小式部内侍
こしきぶのないし

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて

意訳
大江山も生野の道も遠いので、天橋立の地を踏んだことはありません。もちろん、そこにいる母からの手紙も歌も、届いてはいませんよ。
歌の種類
雑 『金葉集 雑部上550』
決まり字
おおえやま いくののみちの とおければ
まだふみもみず あまのはしだて
語呂合わせ
 大江、まだ?(おおえ まだ?)

人物

小式部内侍(999年?-1025年11月)
母は和泉式部
母と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。
藤原教通・藤原定頼・藤原範永などと交際した。
女房三十六歌仙の一人。

代作を疑われて

和泉式部保昌に具して丹後に侍りけるころ都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけると、定頼卿局のかたに詣で来て、歌はいかがせさせ給、丹後へ人はつかはしてけんや、使詣で来ずや、いかに心もとなくおぼすらん、などたはぶれて立ちけるを引きとどめてよめる

『金葉集』詞書より

母の和泉式部が夫の保昌に付き添い丹後にいるときに、都で歌合がありました。
小式部内侍も歌詠みとして採られていました。
藤原定頼が部屋まで来て、
「歌はどうされました?丹後にお使いを送りましたか?お使いが来ないと、さぞ心細いでしょうね」
と、からかって立ち去ろうとするのを小式部内侍が引きとめて詠んだ歌。

これに対して 藤原定頼ですが、

いかにしてかかるやうはあるとて、ついゐて、この歌の返しせむとて、しばしは思ひけれど、え思ひ 得ざりければ、ひきはり逃げにけり。

『俊頼髄脳』

こんなはずはない、と言って、この歌への返歌をしようと、しばらく考えていましたが、思いつかずに小式部内侍が引きとめていた袖を振り払って逃げました。

おもはずにあさましくて、「こはいかに、かかるやうやは有。」と計いひて返歌にもをよばず、袖をひきはなちてにげられけり。
小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。
これはうちまかせて理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知らざりけるにや。

『十訓抄』

思いがけず驚くばかりで、「これはどうしたことか、こんなことがあるだろうか」とばかり言って返歌もせずに、小式部内侍が引きとめていた袖を振り払って逃げました。
小式部内侍はこの件から、歌詠みの世界で評判が高まりました。
これはありふれて理にかなったことですが、あの定頼卿の胸には、これほどの歌を小式部内侍がとっさに詠み始めるとはご存じなかったのでしょうか。

歌の才人和泉式部を母に持つ小式部内侍には常に母の代作疑惑が付きまとっていました。
この一件から、小式部内侍の実力が認められ、歌界で活躍してゆきます。
小式部内侍、面目躍如といった逸話なのですが、人物紹介にも書きましたが、藤原定頼との交際が『宇治拾遺物語』に描かれています。
二人が逸話当時交際中であれば、この逸話は小式部内侍の代作疑惑を払拭するためのやらせだったと言えます。

この逸話当時、二人が恋愛関係にあったかどうかが、気になります。

和泉式部の夫、藤原保昌が丹後守になったのは、1010年頃説と1023年頃説があります。

1010年説の出典は『御堂関白記』らしいのですが、見つかりません。
保昌が左馬頭の身分で丹後の国司を兼ねていたという説です。
小式部内侍が彰子に仕え始めた翌年あたりで、確かに代作疑惑があってもおかしくない時期です。
3年赴任したとして、11歳から14-5歳くらいの逸話となります。
今のアイドルがデビューする年齢くらいでしょうか。
早熟な感じは否めませんが、13歳で結婚する時代ですので、ありえない話ではありません。

1023年説の出典は『東山御文庫小右記』『国司補任』で、保昌が丹後守に任命されたとあります。
小式部内侍が24歳ごろの逸話となります。
しかし、翌1024年には藤原公成と交際し、その翌年には出産で、死亡しています。
歌で世間に認められるには、すこし晩年すぎる感じがしますが、いかがでしょうか?

ここでは、11-15歳説を採りたいと思います。
結論から言うと、この逸話は恋人同士のやらせではありません。

1009年から1011年までに、小式部内侍は藤原頼宗と付き合っていました。
その後、1011年の一条天皇崩御後に彰子の皇太后宮権大夫になった藤原教通と知り合い、恋に落ちます。
1018年19歳頃に、教通の子、静円を産みます。
『宇治拾遺物語』には、教通と藤原定頼の三角関係が出てきます。
教通の出世に伴い、小式部内侍との関係が疎遠になっていたのではないでしょうか。
藤原定頼との恋愛は、教通との関係の晩年と重なった時期に始まったと考えるのが自然です。
つまり、1018年以降のことです。
1010年から1013年の間に起きた大江山のエピソードは、藤原定頼が、一人で仕掛けたものだと思います。

それが、悪意であったかどうかは別にして。
藤原定頼がこの頃から小式部内侍に好意をもっており、自分より身分の高い相手と恋愛中の彼女にやっかみ半分で、からんでいったのかも知れません。
また、小式部内侍の代作疑惑を払拭するために、あえて自分を道化にして一芝居うったという考え方もあります。

後に、恋愛関係になった二人が、笑って語れる逸話になったのだと思いたいです。

読み上げ

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