カササギがいない時代に、中国の七夕伝説は日本に伝わりました。

六年(598年)四月  難波吉士磐金 新羅より至りて 鵲二隻を献る 乃ち難波社に養はしむ 因りて枝に巣ひて産めり
(『日本書紀 推古天皇記』より)

意訳すると
推古天皇の時代に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(なにわのきしめいわかね)が二羽のカササギを持ち帰り、難波の杜(現大阪市中央区の鵲森宮か?)で飼った。すると枝に巣を作って卵を産んだ。

この記述を見るかぎり、当時の日本にはカササギはおりません。
また実際にこの二羽を見た人も、ごく限られた高い身分の方のみということになります。
現在でもカササギは、日本の一部*にしか生息していないことから、大阪ではカササギの繁殖が存続するには、地域的に不可能だったでは、と考えます。

カササギのなじみのなさが、中国伝来の七夕伝説の中で「橋を渡る織女」のイメージの定着の邪魔をした、と考えられます。

*現在のカササギ生息の情報【北海道、新潟、長野、福岡、佐賀、長崎、熊本で繁殖が記録されており、秋田、山形、神奈川、福井、兵庫、鳥取、島根、宮崎、鹿児島の各県、島嶼部では佐渡島、対馬で生息が確認されている。九州の個体群は400年ほど前に輸入されたものに由来する。】(「国立環境研究所 進入生物データベース」より)

枕草子に見るカササギ

『枕草子』に、ホトトギスの声を聞こうと出かけた清少納言の話があります。

清少納言は大のホトトギス好きで有名です。
清少納言一行が、どこに行けば聞けるだろうと相談するシーン。

賀茂の奥に、なにがしとかや、七夕(たなばた)の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし、そのわたりになむ、郭公鳴くと、人の言へば、「それは蜩なり」と言ふ人もあり

賀茂の奥に、何とかいう、七夕の渡る橋ではなくて、聞きなれない名の場所あたりでホトトギスが鳴いていると誰かが言うと、「それは蜩だよ」と言う人もいました。

「七夕の渡る橋」というのは、カササギのことですね。
さすがに清少納言、漢文の知識もあったとみえて、「カササギ」を知っています。
そして、思い出せないくらいちょっと変わった名前、そう、カササギみたいな・・・
と、カササギをそういった聞きなれない名前の例えに出しています。

がっつり、漢詩の世界では、カササギが登場します

『万葉集』と同時代に成立した、日本漢詩集『懐風藻』では、七夕詩6首のうち2首に「カササギ」が登場します。

時代は下りますが、『和漢朗詠集』(1018年頃成立)でも菅原道真の詩に「カササギ」の羽がでてきます。
また道真は、『新古今和歌集』に「カササギの橋を貸して欲しい、都に行きたいから」という内容の歌があります。
脱線しますが、この歌は恋の歌ではありません。
無実の罪に問われた道真は、遠く大宰府に左遷されます。
天皇のいる京都に帰りたくても帰れない。
あぁ、あのカササギの橋があれば、天高く飛んで京都まで一息に渡るものを!という血を吐くような道真の、京都に対する執念の歌です。
色っぽさは、かけらもありません。

Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Michizane_in_exil
『北野天満宮縁起』(承久本)巻四より。
大宰府の配所にて、かつて帝から賜った衣を取り出し涙ぐむ道真
白の狩衣に緑の指貫をはいているのが道真

閑話休題。
おそらく、漢文の教養のある限られた人と人との間にだけ、「カササギ」は七夕のモチーフとして使われたのでしょう。
いや、このモチーフを使うことが、教養人としてのステータスになったのかも知れません。

『万葉集』には入っていませんが、当時でも、この大伴家持のほか、柿本人麿山部赤人の家集にも「カササギ」をモチーフとした七夕の歌があります。

名の知れた大知識人の歌にはあるが、大多数の詠み人知らずの歌に、カササギが出てこない、これが当時の七夕伝説の広まり方と受け入れ方を表しています。

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