末の松山は諸説ありますが、有名なのは、今の茨城県多賀城市にある末松山寶國寺の裏山のことです。

多賀城は、724年大和朝廷が蝦夷を制圧するための軍事拠点として設置されました。
坂上田村麻呂や大伴家持らも派遣されています。
869年7月9日、ここを大地震が襲いました。
貞観の大地震です。
陸奥国東方沖の海底を震源地とするマグニチュード8.3以上と予想される大地震です。

陸奥国に大地震があった。
閃光が、闇を昼間のような明るさで流れた。
人々は叫び、地に伏して起き上がれなかった。
家屋の倒壊で圧死するもの、地割れに生き埋めになるものがいた。
驚いた馬や牛は走り回り、互いを踏みつけ合った。
多賀城の城郭や倉庫は壊れ、門や壁など数え切れないほど崩れ落ちた。
河口付近の海は雷鳴のように吼え、湧き上がった潮は川を遡り城下に達した。
海は野原も道路も飲み込んで、何キロ、何十キロメートルと広がり、船に乗って逃げることも、山に登ることもできずに、千人もの溺死者が出た。
田畑も財産も何も残らなかった。

『日本三代実録』より意訳

「永遠の約束」の象徴

地震で多賀城は壊れ、大きな津波が町を飲み込みました。
しかし、末の松山は、奇跡的にも津波に飲み込まれずに残ったのです。
元の海岸線からも距離のある末の松山は、おそらく海の中にポツンと浮かぶ孤島のような状態になったのではないかと思われます。
朝廷は、被災地への対応を大規模に行い、迅速な対応をしたお陰で、京にいた人々も、末の松山の奇跡を知ることになりました。

この奇跡から、末の松山を浪が越すことはありえない、とされ、「永遠の約束」の象徴になりました。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
(二人でお互いに涙でぬれた袖を絞りつつ約束したよね。
 「この愛は 永遠だね。どんな波でも末の松山を越えることが永遠にないのと同じように」
 って、約束したのにね。)

百人一首 歌番号42 清原元輔

869年といえば、清原元輔が生まれる約40年ほど前にあたります。

この歌は本歌があります。

君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 浪もこえなむ
(あなたを差し置いて、浮気な心をわたしが持ったとしたら、末の松山を浪が越えます。
 そんなこと、ありえないことじゃないですか?)

『古今和歌集 東歌1093』

越える浪

同じ『古今和歌集』には藤原興風の歌が載っています。

浦近く振りくる雪は白波の 末の松山越すかとぞ見る
(入り江近くに降る雪は まるで白波が末の松山を越すかのように見えるよ)

『古今和歌集 冬歌326』

この興風の歌は、元輔らの歌とあきらかに違います。
興風は、末の松山を浪が越える風景を思い描いているのです。
天高く舞う白雪を、海からしぶきを上げながら末の松山に迫り来る白波に、重ねているのです。
人の力の及ばない大自然の脅威を恐れているかのような歌です。

興風の父藤原道成は相模(今の神奈川県)の官吏でした。
興風本人も、900年頃から相模や上野(今の群馬県)、上総(今の千葉県)などの官吏をしました。

869年、興風が父と共に京を離れ、相模にいた可能性があります。
また、887年の相模・武蔵で甚大な被害を出した仁和地震も経験している可能性もあります。
仁和地震は京でも官舎、民家が壊れて死者が出、摂津(今の大阪)では津波の被害が大きかったと記録されています。

末の松山は、興風にとって決して恋の歌のモチーフなどではなく、もっと生々しい、死と生の境目の光景を思わせるものだったのでしょう。

2011年3月11日東日本大震災 末の松山

国土地理院の「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震に関する情報提供」の「10万分1浸水範囲概況図13」で、末松山寶國寺裏山を探してみました。
仙台港の入り江から、「多賀城市」という文字のあたりに、薄紅色に着色されています。
浸水した場所です。
「多賀城市」という文字の右下、「多賀城駅」の「賀」の文字の左側に、浸水を免れて着色されていない凹が一つあります。

ここが、奇跡の伝説の地、末の松山です。

末の松山の大いなる奇跡は、津波の恐怖と共に語り継ぐべきものだと古代の歌が教えてくれます。

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