中国では、七月七日に乞巧奠(きつこうてん)という行事を行っていました。(6世紀編纂『荊楚歳時記』より)
七月七日の夕方、女性が色糸を結び、針の穴を穿ち、或いは金・銀・鍮石を以って針を為り、庭にござを敷いて、酒やくだもの、瓜などを並べて、願いを祈りました。
蜘蛛が瓜の上に巣を張れば、その願い事がかなう符号としたのだそうです。

「乞巧」とは、器用になることを願う、「奠」は、神に供える、という意味です。

特に唐の玄宗皇帝時代(712-756年)には盛んに行われていたそうです。

「七夕儀礼」伝来の時期

遣唐使船
ウィキペディア:ぱちょぴ氏撮影

日本に七夕行事がいつ伝来したのでしょうか。

『万葉集(2033)』 柿本人麿の歌に、庚辰の年(680年)に作ったと添えられていました。
他、山上憶良で724年の七月七日に2首、聖武天皇(皇太子時代)の命で作ったものと長屋王宅で作った、という添え書きの歌があります。

七月七日に宴を宮中で催した記録は持統天皇の五年(691年)に始まります。
持統天皇は、七月三日に吉野宮に行幸し、七日に宴を催しています。
翌年(692年)は七月七日に飛鳥浄御原宮で宴をした後、九日に吉野宮へ行幸しています。
その翌年(693年)も七月七日に吉野宮へ行き、十日に吉野から帰ったという記述があります。

『懐風藻』の七夕の漢詩6首も宮廷儀礼の場で作られた詩だと考えられています。
詩の中に、宮の風景や宴を賛美する、といった内容があるためです。
また、作者らの年代から考えて、持統天皇以降の宴ではないかと推測できます。

飛鳥時代の宮廷で、七夕を含む五節句を積極的に始めた理由は、天皇を中心とする律令体制を整える上で、天皇主宰の祭儀、儀礼が必要だったためだろうと思います。
大宝律令(701年)の雑令に七月七日を節日とすること、という記載があります。
当時、663年の白村江の戦いに破れた朝廷は国防体制、政治体制の強化が急務だと考えました。
戦後であるにも係わらず、大陸との交渉は活発に行われています。
遣唐使は894年に菅原道真の建議で停止になるまでに、10回を越える頻度で行われました。
律令国家としての体制を固めるために、最先進国であった唐の文化や制度を繰り返し取り入れたのです。

この宮廷儀礼が奈良・平安時代になると、乞巧奠を貴族たちの間で行うことになります。
華やかな行事の様子は『増鏡』や『源氏物語』、貴族たちの日記などに記録されています。
各人の衣装や、参列者、弦楽の様子など、非常に細かく、執拗なほどの描写でもって記録されています。
最新の国家儀礼を子孫に伝えるためだと思われます。

しかし、現在の七夕を見る限り、乞巧奠は、ごく一部の限られた家でしか残っていません。
一般の民衆に、伝わることなく乞巧奠は消えました。

わたしたちにとっての七夕とは、飾りをつけた笹の葉に、願い事を書くことくらいじゃありませんか。

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