『日本三代実録』の卒伝(死者のプロフィール紹介文)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記されています

 容姿は閑麗(かんれい)=雅(みやび)で美しく、 放縦不拘(ほうじゅうにしてかかわらず)=規律を無視して勝手にしたいことをして何かにこだわるということがない性格だった

美しい容姿とは

 業平のいた平安時代の美的感覚は現代とは少し違います
 「色白で、目が細く、鼻は細くて高く、うりざね顔で、すらりとして、立ち振る舞いが優美である人」が美男美女だったのです
現代だとイケメンも多様化されていて、掘りの深い顔も日焼けした顔も、濃い眉毛も凛々しくてよいわ、という人もいるでしょうが、この時代は少し偏っていたみたいです
 貴族、王室の人々の婚姻対象者は貴族、王室の人々に限られていて、選択範囲がものすごく狭かったので、似通った容姿の人が多かったのでしょう
 貴族的な顔が美しいとされたと思われます
1日中屋内にいて、大陸文化の漢籍を学び、和歌を詠み、運動不足でむくんだ顔をしていて、優雅な動きをすることを義務付けられている
 まちがっても日焼けをしていたり、気の利いた歌の一つも作れなかったり、粗野な動きをしていてはいけませんでした

おたふく風邪は誰でも美男美女になれる病気!

 おたふく風邪の正式名称は流行性耳下腺炎です
耳の下にある耳下腺が炎症を起こし、頬から耳の下が腫れる病気です。
 これが平安時代の美的感覚にピッタリきたんです
誰もがしもぶくれのうりざね顔になれる!
おたふく風邪にかかると、ある日突然イケメンになれたんです
 たくさんしあわせになれる風邪→お多福風邪
高熱が出るし、痛みもあるし、そんなに幸せな病気じゃないと思うんですがね

弥生人の中から作られた貴族の人々

 現代の研究が進んで弥生人のDNAが解析されてきました
弥生人は、縄文人と渡来系の祖先を持っていることがわかりました
これら弥生人が中央集権化の過程で大和国家の貴族層を形成したことから
被支配者層=縄文人顔・・・濃い顔
貴族顔=弥生人顔・・・細面の瓜実顔
という図式ができたものと思われます

 業平の体貌閑麗とは貴族的美しさを持つ容姿をしていたという意味なのです

業平と渡来人

 業平の容姿が大陸的だったのにはもちろん理由があります

彼には渡来人の血が流れていたのです

父方=阿保親王(あぼしんのう)792年-842年

曾祖父の桓武天皇(かんむてんのう737年- 806年)の母・高野新笠(たかののにいがさ? -790年)は百済武寧王(くだらおうムリョンワン462年 – 523年)の子孫でした

母方=伊都内親王(いとないしんのう)801年?-861年

祖父は桓武天皇(かんむてんのう737年- 806年)上述
祖母は百済王明信(くだらのこにきしみょうしん? – 815年)の孫でした

 高野新笠も百済王明信も百済王家の血筋です

 渡来人の王家の血筋であり、どちらも後宮に入り天皇の寵愛を受けた人だという記録が残っていますので才色兼備な女性だったのでしょう

 業平はこうした選りすぐりの渡来人の血が入ったイケメンだったと想像できます

 奈良、平安時代はまさしく大陸からの文化に大きな影響を受けていた時代でした
儀礼や官僚制度、都の建設、漢籍、音楽、仏教など、何度も遣唐使を送って文化を吸収していました

 渡来人へのあこがれもまた業平の容姿的特徴を美しいと言わせた所以かもしれません