ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅に 水くくるとは(17番)

   (神様の時代でさえも聞いたことがない。竜田川を赤い紅葉が覆い隠し、その葉の下を水がくぐるように流れるなんて。)

在原業平(ありわらのなりひら)825-880年

平安時代初期から前期にかけての貴族、歌人
平城(へいぜい)天皇の孫
阿保(あぼ)親王の五男
『伊勢物語』は在原業平の物語であるといわれている

『Wikipedia』より

 『伊勢物語』には東下りと呼ばれる段があります
業平が都である京都を出て愛知、静岡、東京、埼玉へと旅する物語です
もちろん当時の旅は今と違ってなんの目的もなく簡単にできるものではありませんので
業平の東下りは後世の創作ではないかという意見が多くあります

 事実はわかりませんが、『伊勢物語』では業平が京都を離れた理由を次のように書いています

昔、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして
「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」
とて行きけり

 (昔、ある男がいた
その男は、自分を役に立たないものだと思い込んで
「京にはおるまい、東の方に住むべき国を探しに行こう」
と言って出発しました)

業平が自分を役に立たないと思い込んだ訳

 第50代天皇は桓武天皇
その第八皇女伊都内親王が業平の母

 桓武天皇の第一皇子が、第51代天皇の平城天皇
その平城天皇の第一皇子が阿保親王
この阿保親王が業平の父

 一見すると次代の天皇とまでは言えないけれど、かなり高い身分の人のように思えます
その人が「役に立たない」とは5つの理由があります

 

1.阿保親王は平城天皇の第一皇子でありながら皇太子にはなれなかった

阿保親王Wikipediaより

 平城天皇の皇太子は第一皇子の阿保親王ではなく、弟の神野親王でした
神野親王は頭脳明晰で父桓武天皇のお気に入りだったのです
桓武天皇の意向もあってか皇太子には神野親王が立ちました

15歳の阿保親王はどのように思ったでしょう

神野親王が即位し、嵯峨天皇になりました
当然次の皇太子は平城天皇の第一皇子阿保親王となると思われましたが、皇太子に選ばれたのは弟の高岳親王でした

阿保親王が天皇になる望みはほぼなくなったのです

2.薬子の変または平城太上天皇の変で父阿保親王左遷

 810年 平城上皇が嵯峨天皇に対立し敗れました
平城上皇と皇太子の高岳親王は出家
上皇をそそのかしたとされる愛妾藤原薬子や藤原仲成らが処罰されました

業平の父阿保親王も大宰員外帥へ左遷されてしまいます

(・・・大宰員外帥といえば藤原氏と対立して敗れた菅原道真も左遷先がこの職でしたね
阿保親王が実際に大宰府まで赴任したかどうかはわかりませんが)

 阿保親王19歳
今度こそ阿保親王が即位する可能性は潰えました

 14年後の824年 平城上皇が崩御し、父の阿保親王は叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許されました
日陰者としての19歳から32歳まで過ごしたのです
記録には腕力が強く武にすぐれ、美しい音楽を奏でたとあります
その才能は誰にも求められませんでした

 翌年業平が生まれますが、阿保親王は業平ら息子たちを臣籍降下させて在原姓を名乗らせています

これはもう皇位継承者争いに子供たちを巻き込まないための自衛手段でした
自分たちは決して出世しようとしないので許してください、という姿勢を宮廷に対して見せたのです

3.承和の変と父阿保親王の死

 権力争いから退き、京の都に戻ることも許された阿保親王は、死ぬまで静かに暮らしていくはずでした
しかしその生活は20年足らずで終わりを告げます

 842年 阿保親王は承和の変に巻き込まれたのです

 承和の変は伴健岑や橘逸勢らが皇太子恒貞親王を守るため東国に移そうとした事件です

 嵯峨上皇は次の皇太子に自分の子ではなく、弟の子供を立てようとしました
弟淳和天皇とその妻高志内親王は嵯峨上皇の異母兄弟でした
嵯峨上皇は皇族の血統を重視したのです
しかし親王がそれを固辞し出家しました
仕方なく皇太子には自分の第一皇子を立てました
この第一皇子が仁明天皇として即位した時、嵯峨上皇は弟の第二皇子恒貞親王を立てました

これがのちの承和の変の原因となったものです

 恒貞皇子も第一皇子と同様に皇太子辞任を希望しました
しかし嵯峨上皇と仁明天皇から引き留められてかないませんでした

 仁明天皇には野心家の藤原良房の妹が生んだ皇子がいたのです

当然仁明天皇と良房はこの皇子を天皇にしたいと思っているに違いありません

 しかし嵯峨上皇という存在は大変大きく、それに反することは恒貞親王にも仁明天皇にも良房にもできませんでした

その9年後、嵯峨上皇が危篤になったという知らせが宮廷を駆け巡りました

 恒貞親王が危ない、と伴健岑や橘逸勢らは感じました
恒貞親王を東国に逃がそう、という相談を阿保親王に持ちかけます
阿保親王が当時上野国(現群馬県)の長官であったこと
そして、皇位継承者争いとはまったくの無関係であったこと
が理由だったのでしょう

しかし阿保親王は彼らに加担しませんでした

 彼らの計画の詳細をしたため、橘逸勢のいとこであり仁明天皇の母でもある檀林皇太后に上書した、と記録にはあります

 当然ことは檀林皇太后から仁明天皇と藤原義房に伝わりました

 恒貞親王は廃太子となって出家
伴健岑と橘逸勢は流罪(橘逸勢は護送途中で病死)となりました
その他大勢の人が連座して罰せられました

 罪状は伴健岑や橘逸勢らが恒貞親王と東国で謀反を起こそうとしている、というものでした

 阿保親王は本当に密告をしたのでしょうか
実は仁明天皇や良房に脅されて密告分を書かされたのではないか、という説もあります

 阿保親王には対抗できる力も味方もいませんでした

 本当に自分で密告文を書いたのだとすればどういった理由からでしょうか
静かな生活を壊される恐怖からでしょうか
両方の血縁者である檀林皇太后なら円満な解決ができると思ったのかもしれません

 ともかく、阿保親王の密告は多くの人の位と命を奪ったのです

 阿保親王は3か月後に急死しました
51歳でした
自殺なのか、自責の念に苦しんで得た病のせいなのか、詳細は残っていません

 死後、承和の変の功労者ということで、朝廷から親王の最高位の位が与えられました

 時に業平18歳

この父の姿に何を思ったのでしょう

4.紀氏とのつながり

 業平の妻は紀有常の娘です
紀有常(きのありつね)は文徳(もんとく)天皇の妻静子の兄弟にあたります
静子は文徳天皇の第一皇子の惟嵩(これたか)親王の母です

 つまり業平は皇太子第一候補の義理のいとこという関係・・・のはずでした

 しかし時代は藤原良房全盛期
文徳天皇には藤原良房の娘も入内しており皇子も生まれていました
当然惟嵩親王は第一皇子といえども、後ろ盾が紀氏では良房に敵うはずもなく皇太子にはなれませんでした

 業平は19歳年上の不遇な皇子と率先して交流しました
お供をして鷹狩に出かけたり、花見を楽しんだりした時の歌が残っています

紀氏とのつながりもあったでしょうが、わたしはなにか業平の宮廷に対する意思のようなものを感じました

 それは、自分の意思とは関係なく、思うまま生きることができないことへの怒りではないでしょうか

 惟嵩親王、父阿保親王そして業平自身も 嵯峨天皇を頂点とする宮廷内での勢力争い藤原良房率いる藤原一族の繁栄の犠牲者になりました

 それが業平の行動に表れているように思うのです

 あえて権力者=藤原氏との交流を深めるのではなく、敗北した側の皇子と遊ぶことで意思表示しているように思うのです

5.皇太子妃誘拐事件

 犯人は業平ですが、誘拐された藤原高子は皇太子の妃候補であるだけでなく、藤原義房の娘という立場の女性でした

藤原高子(たかいこ)

 藤原高子は藤原長良(ながら)の娘でしたが、父が死に後ろ盾無く入内することになりそうになりました
そこで高子の兄を養子としていた長良の弟の良房が高子も養女として入内の後ろ盾になったのではないかと考えられます
もちろん良房には野望がありました
皇太子妃として入内させる適当な年齢の娘がいなかったため、高子を利用して次期天皇の外祖父に納まろうとする目的があったのでしょう

妃候補を奪われたのは惟仁親王です

 惟仁親王は業平と交流の深い惟嵩親王から皇太子位を奪った人物です(↑4番参照)
といっても当時惟仁親王は生後八か月、惟仁親王に罪はありません

 事実、父の文徳天皇は惟嵩親王を皇太子にしたかったのです
しかし良房の圧力に屈してしまい、惟仁天皇を皇太子にせざるを得ないことになりました

 ちなみに文徳天皇は承和の変で皇太子の位を手に入れたのち即位した人物です(↑3番参照)

さて

(惟仁親王に皇太子位を奪われた惟嵩親王と深く交流しており、承和の変に巻き込まれたあげく死に追いやられた哀れな父の息子の)在原業平が
(惟仁親王の妃候補であり、承和の変で上手く立ち回った藤原良房の養女である)藤原高子を
入内前に連れ出して逃げる話が『伊勢物語』にあります



昔、男ありけり
女の、え得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり
芥河といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれはなにぞ」となむ男に問ひける
ゆく先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、
あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・胡簶を負ひて戸口にをり、
「はや夜も明けなむ」と思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり
「あなや」と言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり
やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし
足ずりをして泣けどもかひなし
  白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

(昔ある男がいました
得ることができそうになかった女性を、長年口説き続けていましたが、やっとのことで盗み出して、大変暗いところに来ました
芥川という川まで連れて行きますと、彼女は草の上に置いてあった露を見て、「これは何かしら」と男に尋ねました
行く先は遠く、夜も更けてきて、鬼がいる所とも知らずに、雷までひどく鳴り響き、雨もひどく降ってきて、
荒れ果てた蔵に彼女を奥に押し込んで、男は弓と矢を入れたやなぐいを背負って蔵の戸口にいて
「早く夜も明けてほしい」と思いながらじっとしていると、鬼がすぐに彼女を一口に食べてしまいました
彼女は「あぁ」と言いましたが、雷が鳴る騒ぎで、男には聞こえませんでした
だんだん夜が明けてきたので、男が蔵の中を見てみると、連れてきた彼女もいなくなっていました
男は地団駄を踏んで泣きましたがどうにもならないことでした

  白玉を何かしらと彼女が尋ねた時 あれは露だよと答えてあげて 二人で露のように消えてしまえばよかったね)

 結ばれない運命の二人の逃避行が業平の歌の美しさで切なさマシマシですが、『伊勢物語』ではこう続けています

これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを
かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを
御兄、堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内裏へ参り給ふに
いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返し給うてけり
それを、かく鬼とは言ふなりけり
まだいと若うて、后のただにおはしける時とや

 (これは二条の后(=高子)が、いとこの女御(藤原明子 良房の娘)のもとにお仕えするようにいらっしゃたのを高子がとても美しくいらっしゃったので、男が盗み背負って屋敷から出たとき、高子の兄の国経と基経が内裏でたいそう泣く人がいるのを聞きつけて、逃げようとする人を引き留めて取り返しました
この(=詳しく書いてはいけない)ようなできごとを鬼の仕業といいました
高子がまだとても若くて普通の身分の時のことだといいます)

 すこし状況がわかりにくいですがこの後書きからわかることは
・場所は郊外ではなく内裏で、文徳天皇の女御の屋敷のそばのようです
・男が高子を背負って屋敷から出たのもわかります
・また高子には「これは何かしら」という余裕は感じられず泣きじゃくっているようです
・高子の兄たちが見つけた時、高子を取り返したのはわかります
・詳しく書いてはいけない理由はわかります
  高子が入内前にほかの男と出かけようとしていたこと
  業平は仮にも王族であるので表立っては罰せられないこと
ですね

 わからないのは
高子が泣いている理由と、業平が高子を背負って屋敷から出たあとの行動です
業平35歳、高子18歳の時二人は出会います
 その後いつこの事件が起きたのかは定かではありませんが、女性の18歳は成人している年齢で、いくら年の差はあっても幼子を誘拐するようなものではなく、業平と逃げることを高子は了承して行動をともにしているはずです

 業平と一緒に逃げるのを嫌がって泣いているのではありません

高子が泣いている理由はなんでしょう

 兄たちに発見されたとき業平は一緒にいたのでしょうか
もし高子一人だったとすれば高子が泣く理由がわかる気がします
業平に連れ出されたものの、置き捨てられたからだとしたら、どうでしょう
相手に愛情をもっていたのは高子だけだったとしたら
自分は后になる未来を捨てる覚悟までして屋敷を出たのに、業平にあっさりと捨てられたとしたら

『古今和歌集 ( 恋五・747)』に業平の歌が記載されています

五条の后の宮の西の対にすみける人に、本意にはあらで物言ひわたりけるを、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして

(五条の后(藤原順子 仁明天皇妃)の屋敷の西の屋敷に住む人(高子)に、本当の真意ではなくことばを交わし続けてていたのだが

 月はあの月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか
 私のからだだけがここにあり
 昔私と共にいた あなたも月も春も ここにはいないのだな)

 業平と高子の恋愛が発覚して、高子は居場所を良房に変えられてしまいました
そのことを詠った歌なのですが、注意してほしいのが詞書です
「本意にはあらで」とあります
業平は高子との交際を真意ではなかった、と言っているのです
『伊勢物語』では高子がとても美しかったので業平が盗み出した、とありますが、ほかの理由だったとしたらどうでしょう

 高子は業平にとってかなり因縁の相手です
高子本人に対してはなんの恨みもないにせよ、周囲が悪すぎます
惟仁親王、文徳天皇、仁明天皇、藤原良房そして阿保親王、惟嵩親王
いろいろな人の顔が浮かばずにはいられなかったでしょう
それにまして良房は高子の入内を使って実質的権力の地盤をより強固なものにするのは目に見えています

 きっと第二、第三の、阿保親王、恒貞親王や惟嵩親王が生まれるのでしょう
見過ごせばまた不遇な皇子が血の涙を流す未来が待っています
良房の野望の一端である高子をさらえば、良房の野望を頓挫させることができるかもしれない、という考えが業平にこの行動を起こさせたと考えられます

 しかし偶然駆け付けた高子の兄たちに阻まれて、計画は失敗に終わったのです

百人一首には国母となった高子に献上する屏風に書かれた業平の歌があります

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅に 水くくるとは

 神様の時代でさえも聞いたことがない。竜田川を赤い紅葉が覆い隠し、その葉の下を水がくぐるように流れるなんて。

 この歌には別の解釈がありました

「ちはやふる」は「血はや降る」

 高橋睦郎氏の著作で、業平のこの歌は違う解釈をされています

血が天から降って来るなどということあるだろうか。神々の時代にも、そんなことは聞いたことがない。大和を貫流する蛇身のその名も龍田の川を、唐紅のくくり染めにして、流れていこうとは。
大和の地霊が山城の地霊に敗れ、わが平城[へいぜい]王朝は瓦解してしまった。その負けいくさが秋ごとに川のおもてに繰り返されるのだ。

高橋睦郎著『百人一首 恋する宮廷』より

 自分たち力を持たぬ一族の血が繰り返し繰り返し流れて行く
そして、罪を知らぬものたちの時代がわれらの血の川の下をくぐりながら流れてゆく
そんな理不尽な世界をわれわれは生きてゆかねばならぬのか

 屏風に書かれた業平のこの叫びは高子や清和天皇(惟仁皇子)、藤原良房に届いたのでしょうか

さて話は最初に戻ります

業平は自分を「役に立たない」と思い都を出ました
都に居場所はないんだ、どこかに自分が役に立つ場所を見つけに行こう

 そんな男が自分の居場所を求めて東国を巡ったと伝えられているお話が『伊勢物語』の業平東下りです
 訪ねてみました

業平橋

 大横川(現・大横川親水公園)に架かる橋。東京都墨田区業平1丁目と吾妻橋3丁目を結んでおり、浅草通り(東京都道453号本郷亀戸線)を通す

創架は寛文2年(1662年)と伝えられ、『新編武蔵風土記稿』(巻之二十四、葛飾郡之五)には、「業平橋 横川に架す、長七間幅二間の板橋なり寛文二年伊奈半十郎奉行して掛渡せり、業平天神の社辺なるを以て其名とす」と記されている。現在の橋は昭和5年(1930年)に架設されたもの『Wikipedia』

 最寄り駅は東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の「とうきょうスカイツリー駅」

この駅は旧称業平橋駅といいます

駅掲示板

 駅の駅名標には「旧業平橋」と付記されていて、現在東京観光のメッカとなった東京スカイツリーなので、業平なんてどこにも残されていないのかと思っていましたが、ちゃんと残っているのを見ると地元の人々が業平を愛しているのがわかって嬉しかったです

旧業平橋駅すみだ郷土文化資料館

東京スカイツリー建造の工事で、施工業者から工事についての特別授業が墨田区立業平小学校の生徒さんにあったそうです

そのお礼に描かれた巨大な絵がこちら

業平さんが舞い踊っていて楽しそうです(笑)

公園

橋のかかる大横川親水公園はとてもきれいに整備されていました

業平橋

 ジョギングをする人、犬の散歩をする人、早朝にも関わらず、たくさんの人々が行き交っていました

南蔵院跡看板

 東京スカイツリー駅を背に業平橋を少し過ぎたあたりにこんな看板を見つけました
南蔵院跡とあります
大岡政談にある有名な話が紹介された後、業平天神社についての記載がありました
書き出します

一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました
平安時代の歌人・在原業平をまつったものといわれます
業平は、隅田川を船で渡ったときに「何し負わば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠みました(『伊勢物語』)
現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残しているのは、このことに由来しています

隅田川にかかる言問橋に行ってきました

なほ行き行きて、武蔵野の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守、はや舟に乗れ、日も暮れぬ、といふに、乗りてわたらむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見しらず。渡守に問ひければ、これなむ都鳥といふをきゝて、

  名にし負はゞいざことゝはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。『伊勢物語』

(さらに行き進むと、武蔵野の国(現在の埼玉東京あたり)と下総の国(現在の千葉あたり)との途中にたいへん大きな川がありました
それを隅田川といいます
その川のほとりでみんなで座って思いにふけっていると、都から限りなく遠くに来たものだなあと、気弱な気分になってしまいました
川船の渡し守が、早く船に乗れ、日が暮れてしまうだろう、と言うので、乗船して川を渡ろうとするのですが、皆心寂しく、京の都に思いをかける人がいない訳でもありません
そんな折、白い鳥でくちばしと脚が赤く、シギのような大きさの鳥が水の上に遊びながら魚をついばんでいました
京の都では見ることのない鳥なので、みんな知りませんでした
渡し守に尋ねてみると、これは都鳥というんだ、と言うのを聞いて

名にし負わば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

「都」という名を持っているのなら、都の事情に詳しいのだろう
さあ尋ねよう、都鳥よ
私が恋い慕う都のあの人は無事でいるのか いないのかと

と歌を詠むと、船にいた人々は一斉に涙をこぼしたのでした)


 自分を役に立たぬ存在だとし、遠く東国まで来た業平が詠んだ歌
都への苦い思いよりも、愛する人への惜別の念が強く感じられる歌です
業平の歌は現代に生きるわたしたちにもわかりやすく、一度聞くと、何度も口ずさみたくなる響きがあるように思います

 言問橋(ことといばし)は、隅田川にかかる橋で、国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。

墨田区曳舟川の由来のモニュメントより引用

都鳥

都鳥シカゴ美術館蔵 歌川広重

白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる

と、『伊勢物語』には書かれています
おそらく京の都にはいない鳥だったので詳しい描写がされたのでしょう
都鳥とはその特徴からユリカモメのことだと推定されます
 実際に訪ねてみると、言問橋のある隅田川から沿岸にある台東区立隅田公園を見上げると、ユリカモメが仲良く並んでいるのが見えました

 

 ちなみに業平の故事があった渡し場は現在の白髭橋の辺りにあったようで、言問橋よりも北に位置しています
名前は「橋場の渡し」
記録に残る隅田川の渡しの中では最も古いものだそうです

言問橋です

言問橋欄干

 大都市東京にあってこんなに黒く汚れて古ぼけた橋がわざと残されています

東京大空襲で焼け焦げた橋をそのまま残しているのです

昭和20年3月10日 約10万人の人の命が一夜にして奪われた空襲でした

焼夷弾が投下され町は火の海となりました

火から逃れようと荷物を持って人々は隅田川に殺到しました

言問橋の上で身動きが取れなくなった群衆に火災による竜巻が襲い掛かりました

焼け死ぬのか

極寒の川に飛び込んで凍死するのか

熱風で気道をやられて窒息死した人もいました

翌朝、言問橋の橋の上と川面には大勢の人々の死体で埋め尽くされたのです

言問橋1

 このブログは前半のやりきれないほど殺伐とした業平を取り巻く宮廷の歴史にうんざりし、業平小学校の業平の絵とユリカモメにちょっと癒されたのがまた東京大空襲で気分が落ち込んでしまいました すみません

南蔵院

南蔵院

 最後に東京スカイツリー駅そばの看板にあった南蔵院を訪ねてみました
大岡政談の話にある縛られ地蔵もいました

縛られ地蔵

 願い事がある人は画面右手においてある縄でお地蔵様をしばってお願いをし、願いが叶うと縄をほどきお礼を申し上げるのだそうです

 南蔵院は移転して真新しくてきれいに整備されており、本当のところ歴史的な雰囲気は感じられませんでした
 しかしそれがかえって少しほっとした気分になりました
業平の苦しみと言問橋を見たあとでしたので・・・