鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は源実朝(93番)が暗殺された場所です
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも
(この社会が、ずっと普段通りであるといいなぁ。海人が、小船の綱を引く、そんな普通の光景にも、心動かされるものだよ)
網を引く漁師という風景は、相模湾に幕府を置いた鎌倉で生きた実朝には当たり前の風景だったろうと思います
その当たり前の風景に価値を置いて、ずっとずっとこのままで、と思う実朝の願いの強さが切なさとなって読む人の心を打つのだと思うのです
暗殺とは政治的、宗教的、実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為のこと 『Wikipedia』より
実朝は鎌倉幕府の要人の子として生まれました
源頼朝の子として生まれたために、自身の力だけでは抗えない運命に流されて26歳という若さでその命を失ってしまったのです
実朝 暗殺事件 勃発
被害者:源実朝(みなもとのさねとも)、源仲章(みなもとのなかあきら)
加害者:実行犯 公暁(くぎょう)
動機
実朝を殺害する時、実行犯:公暁はこう叫んでいます
「鶴岡八幡宮寺別当の阿闍梨公暁が父の敵を討った!」
動機は「父のかたき」
公暁は実朝の兄源頼家(よりいえ)の子です
ちなみに頼家が死亡したのち、公暁は実朝の猶子(ゆうし:家督相続をしない前提での養子)となっていますが、この場合「父」とは頼家のことを指します
公暁の父、実朝の兄である頼家は鎌倉二代将軍でした
・頼家の死は陰謀によるものだったため、自分は跡を継げなかった
・頼家の地位を奪ったやつが父を殺したやつなんだ
・それは今将軍の地位についている実朝なのだ
と公暁は主張したのです
頼家暗殺事件について
頼家は暗殺されました
鎌倉幕府を作った偉大な父源頼朝(みなもとのよりとも)が落馬が原因で急死しました
跡を継いだ頼家は自分の乳母の比企(ひき)氏を重用し、自身での独断的な政治を行っていきました
北条氏らは これに反発しました
そこで、頼家が急病になった際、都に「頼家病死。弟である実朝が跡を継ぐ」という嘘の報告をしました
それと同時に比企氏を殺害したのです
病気が治ってこれを知った頼家は激怒しますが味方になるものはすでにおりませんでした
味方を失い、続いて長男をも北条氏によって殺害されてしまいました
最後に頼家自身も鎌倉を追放されて、伊豆の修善寺にて暗殺されてしまったのです
元久元年(1204年)7月18日 修善寺にて頼家入道を刺し殺した
頼家を押さえつけることができなかったので、首に紐をつけ、陰嚢を握るなどして殺害したと聞いた 『愚管抄』より
頼家暗殺当時 公暁は5歳
公暁は実朝の猶子(ゆうし:家督相続をしない前提での養子)となったのち、鶴岡八幡宮で出家させられます
18歳で鶴岡八幡宮の別当(べっとう:長官の役職)に就任しました
実朝暗殺事件は実行犯の公暁の職場=鶴岡八幡宮で行われました
鶴岡八幡宮の別当就任のわずか4か月後、公暁は宿願成就を祈念して1000日間鶴岡八幡宮にこもる業を始めました
業が始まって400日目を超えた頃、人々は公暁に不信感を覚え始めます
・公暁は何かの祈願をしたらしい
・鶴岡八幡宮から退出しない
・全く頭を剃らない
公暁の宿願とは何なのか?
人々が公暁の振る舞いに不審を覚えて50日余りでその答えを知ることになります
実朝暗殺事件が遂行されたのです
場所
暗殺は鶴岡八幡宮で行われました
記録では、場所は上宮から下りる階段とも、石橋とも記されています
どちらなのかは判明していません
建保7年(1219年)1月27日
当日の天気は晴れ
しかし夜になって60cmもの雪が降りました
実朝は鶴岡八幡宮に参詣しました
目的は実朝が右大臣を拝命したことの喜びと感謝を鶴岡八幡宮に伝えるためでした
出発は夕方5時から7時あたり
1500名を越える実朝一行が御所を出発したのでした
一行が鶴岡八幡宮の楼門に入った時ある出来事が起きます
突然北条義時が心の乱れを理由に御剣役を降りたのです
御剣役(ぎょけんやく)とは身分の高い人の傍で御剣を持って控える役をいいます
そこで実朝の教育係である源仲章(みなもとのなかあきら)が代わりに実朝に随行しました
夜になって儀式が終わり、実朝が上宮から帰る途中、公暁が隙を見て近寄り剣を取って実朝と仲章を殺害しました
隋兵らが馬で宮寺に駆け付けた時にはすでに公暁は実朝の首を持って逃走した後でした
「公暁の隠れ銀杏」
鶴岡八幡宮には正面の石の階段の下、西側に大イチョウが植えられていました
樹高30m、幹の周囲6.8mの大きなイチョウの木でした
公暁が実朝を暗殺する際、隠れていたと言われるイチョウの木です
歌にもなっています
八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の
大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公暁の
かくれしと
歴史にあるは此影よ
『鉄道唱歌』より
しかし『吾妻鑑』『愚管抄』『増鏡』など中世の書物にはイチョウの木に公暁が隠れていたという記録はありません
近世になって出版された書物からイチョウの木が登場してきます
1659年出版の『鎌倉物語』に鶴岡八幡宮境内が描かれており、イチョウの木があります
しかし人一人が隠れるには少々無理のある細さのように見えました
実測
2010年の強風で大イチョウは倒壊してしまい、現在はありません
現在見ることができるのは大イチョウの切り株と、大イチョウから芽吹いた子イチョウたちが茂っている風景です
『地学教育と科学運動67号』に足立久男氏が 倒壊した大イチョウを観測して書かれた論文が掲載されています
そちらを拝読しますと倒壊した大イチョウの推定樹齢は500年ということでした
公暁が隠れ潜んだというのは、近世以降の創作だったのではないか、と推測されます
または、800年前のその日 公暁が隠れられるほどの大きなイチョウの木があったのかもしれませんが、2010年に倒壊した大イチョウではなかったということになります
公暁の逃走劇
実朝の隋兵らは公暁を追って、公暁の宮である本坊に乗り込み、そこにいた僧らと交戦します
しかし僧たちを打ち破ったものの公暁を捕らえることはできませんでした
実は公暁は本坊には帰らず、実朝の首を持って自分の後見役の僧の家に逃げ込んでいました
そして手にした実朝の首を離さないまま、食事を摂ったと言われています
その後、公暁は乳母の子である三浦義村に連絡をして
「将軍は空席となった。わたしこそが関東の支配者にふさわしい。速やかに即位の手配をするように」
と命じました
しばらくの無言ののち、義村は公暁に対して
「まずは拙宅にお越しください。お迎えの兵を差し向けます」
と返事しました
すぐさま義村はこのことを北条義時に知らせる使者を走らせました
義時からの返事はすぐに公暁を誅殺するようにという命令でした
そこで義村宅に向かって来た公暁を鶴岡八幡宮の後方の峰で打ち取りました
公暁 享年20歳でした
実行犯は公暁 そして・・・
鶴岡八幡宮での実朝暗殺事件
謎の多い事件でした
1.犯行当時1500人を越える随人・隋兵はなぜか傍にはいませんでした
犯人が「公暁である」と叫んでいるのを聞いた人々はいましたが、犯人の後を即座に追うことはできなかったところを見ると、犯行現場にいたのは被害者らと犯人だけだったと思われます
2.北条義時のラッキーは本当に偶然だったのか
実朝亡きあと、源氏の血筋は途絶え鎌倉幕府の政治は北条家が行うことになりました
義時の「心の乱れ」で仲章に役目を変わらなければ、公暁に殺されていたのは仲章ではなく、義時のはずでした
もしくは、襲い来る公暁を迎え撃つ役目をしなければならないのは義時だったはずです
しかし「偶然」義時は実朝の傍にはおらず、実朝は殺されてしまったのです
本当は義時は公暁の実朝暗殺計画を知っていたのではないか、という疑惑が浮上します
3.なぜ公暁は犯行後、三浦義村を頼ったのか
仮にも将軍の首を取った公暁が堂々と三浦義村に連絡を取ってきたのは不自然です
絶対に罪人扱いされない自信がなければ連絡などできなかった所業と考えると、予め義村が実朝暗殺計画を知っていた
もっと言えば公暁に暗殺をそそのかしたのは義村ではないかという義村暗殺教唆説が浮上します
公暁から実朝の暗殺を聞いた義村が即北条義時に連絡を入れたことから義村、義時の共謀説も考えられます
つまりは
実朝暗殺には、実行犯公暁以外の誰か、北条義時か三浦義村かが噛んでいると考えられます
その誰かは実朝亡きのち政治的事件を握るために自分の手を汚したくはなかった
子供のいない実朝が死んだあとのことを考えて、義理の子供である公暁も一緒に始末できる一石二鳥の陰謀だった
これが実朝暗殺事件の真相であると考えられます
そして誰もいなくなった
実朝の人生には常に人の死が寄り添っていました
1192年 | 実朝誕生 |
1199年 | 父 頼朝死去し、兄頼家が跡を継ぐ |
北条時政ら13人の重臣による合議制発足 | |
1200年 | 梶原景時、鎌倉を追放ののち、上京途中で殺害される |
1203年 | 叔父の阿野全成、流刑ののち殺害される |
比企一族、北条討伐を企てるも失敗。滅亡する | |
仁田忠常、堀親家、頼家の北条時政殺害に加担したため殺害される | |
頼家、出家 | |
実朝、征夷大将軍に | |
1204年 | 頼家、暗殺される |
1205年 | 畠山重忠、重保、平賀朝政、殺害される |
北条時政、妻牧の方の実朝殺害未遂事件に連座して鎌倉追放 | |
1213年 | 泉親衡、甥栄実、殺害される |
和田一族滅亡 |
父頼朝の死後鎌倉幕府を支えた重臣や血縁者など、ポロポロと歯が抜け落ちていくかのようにこの世を去っていく姿を実朝はどう見ていたのでしょうか
宗教に救いを求めて
実朝は鶴岡八幡宮はもちろんのこと、いろいろな寺社に参拝、奉納を繰り返していました
数日置きでの参拝などとても将軍職についた人の日常とは思えません
この逼塞した環境から逃れようとしての参拝だったのでしょう
そして実朝はついに自分は宋の国の高僧の生まれ変わりと信じて、渡宋することを思い立ちます
巨大な船を建造して由比ヶ浜から出発しようとしますが、船は浮かばずそのまま打ち捨てられました
鶴岡八幡宮には実朝が宋から取り寄せて植えたと伝えられるビャクシンの木があります
うねるようにもがくように天を目指すビャクシンに、実朝の苦悩を重ね合わせてしまいました