ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる 『千載集 夏歌三161』

夏告げ鳥が、春告げ鳥に”托卵”

ホトトギスはカッコウの仲間で、他の種類の鳥の巣に産卵し雛の世話をさせる、托卵(たくらん)の習性があります。

種間托卵でよく知られているのは、カッコウなどカッコウ科の鳥類が、オオヨシキリ、ホオジロ、モズ等の巣に托卵する例である。
カッコウの雛は比較的短期間(10-12日程度)で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。孵化したカッコウの雛は巣の持ち主の卵や雛を巣の外に押し出してしまう。その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい、成長して巣立っていく。托卵を見破られないようにするため、カッコウは卵の色や斑紋などを仮親の卵に似せている(仮親の卵に似た卵を生む性質が代を経て選抜された)。また、托卵する際に仮親の卵を巣から出して数合わせを行う場合もある。

『Wikipedia』

托卵される側も托卵されまいと対抗はしますが、上手くいかないと上記のように親鳥やその卵や雛には、残念な結果になります。

ホトトギスの場合、ウグイスがその対象です。
ウグイスが巣作りと産卵を終えた初夏に、インドから渡って来るのです。

季節を告げる鳥仲間なのにずいぶんな話ではないか、と思います。
しかし、万葉集にこんな歌があります。

霍公鳥(ほととぎす)を詠みし一首

うぐひすの 卵(かひご)の中に ほととぎす
ひとり生まれて
己(な)が父に 似ては鳴かず
己(な)が母に 似ては鳴かず
卯の花の 咲きたる野辺(のべ)ゆ
飛び翔(かけ)り
来鳴き響(とよ)もし
橘の花を居散らし
ひねもすに 鳴けど聞きよし
賄(まひ)はせむ
遠くな行きそ
我がやどの 花橘に 住みわたれ鳥
『万葉集 巻九1755』

(ウグイスの卵の中にホトトギス
ひとり生まれて
お前の父であるウグイスに似ては鳴かず
お前の母であるウグイスに似ては鳴かない
卯の花の咲く野辺を
飛び翔り
来ては鳴き響かせ
橘の木に止まっては 花を散らし
一日中鳴いてはいるが 聞き良いものだ
お礼に贈り物をしよう
遠くへは行くな
私の家の橘の花に住めよ ホトトギス)

こう詠われると、本当の親を知らぬホトトギスを哀れに思う気持ちがわいてきます。

歌の力、恐るべしです。
そして、こう詠わせるホトトギスの声の力、恐るべしです。

『万葉集』には、この歌の他に100首を越える歌が詠まれています。

徹夜もまた良し。ホトトギスの声を待つ夜。

平安時代の貴族たちは夏の訪れをいち早く聞こうと、夜を明かしてホトトギスを待ちました。
『千載集』にも、この後徳大寺左大臣の歌の他に、ホトトギスの歌が19首、掲載されています。

  • 郭公 まつはひさしき 夏の夜を 寝ぬに明けぬと たれかいひけむ 按察使公通『千載集148』
    (ホトトギスを待って長い長い夏の夜。「眠らずに夜が明けた。夏の夜は短いね」と誰が言ったか。)
  • ふた声と 聞かでややまむ ほととぎす 待つに寝ぬ夜の 数はつもりて 藤原道経『千載集149』
    (一声目は聞いた。二声目を聞かずに寝るつもりはない。ホトトギスを待って眠らずの夜の数が、どれほど積もっていることか。)
  • 待たで聞く 人にとはばや ほととぎす さても初音や うれしかるらむ 覚盛法師『千載集153』
    (待たずに鳴き声を聞いた人に問いたい。そんなに楽して聞いたホトトギスの初音でも嬉しいか?と。)
  • 一声は さやかになきて ほととぎす 雲路はるかに とをざかるなり 前右京権大夫頼政『千載集159』
    (一声だけ鮮やかに鳴いたホトトギス。喜びもつかの間、ホトトギスは、雲路を遥かに遠ざかってしまったようだ。)
  • 思ふ事 なき身なりせば 郭公 夢に聞く夜も あらまし物を 摂政前右大臣『千載集160』
    (思い悩み、眠れぬ夜を過ごすことが無い身であれば、ホトトギスよ。お前の声を夢の中でうれしく聞く夜もあったろうに。)
  • すぎぬるか 夜半のねざめの 郭公 声はまくらに ある心地して 皇太后宮大夫俊成『千載集165』
    (もう通り過ぎていっただろうか、夜半に目覚めたときに鳴いたホトトギスは。その声はまだわたしの枕元にある心地だが。)
  • 夜をかさね ねぬよりほかに ほととぎす いかに待ちてか ふた声は聞く 道因法師『千載集166』
    (幾夜を重ねて、寝ずにいることのほかに、ホトトギスよ。どんな待ちようがあろうか、二声目を聞くためには。)
  • 心をぞ つくしはてつる ほととぎす ほのめく宵の むら雨の空 権中納言長方『千載集167』
    (ホトトギスの鳴き声を待って徹夜の日が続く。心は尽くし果ててしまった。そんな気持ちの中、日暮れの村雨の空にかすかに鳴き声が聞こえた。)

こうしてみると、後徳大寺左大臣の歌の世界観が、際立って美しいように思います。

 ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる 『千載集161』

159の頼政の歌にあるように、ホトトギスの動きはかなり速く、声をしたほうをすぐに見ても、姿はないといわれています。

ホトトギス遠足清少納言
『Wikipedia』663highland様撮影

杜鵑(ほととぎす)は猶更にいふべきかたなし。 清少納言は、ホトトギスの声を聞くために、車を出してもらった話を『枕草子』に書いています。
ただこの遠足は、行った先で、あまりにたくさんのホトトギスが鳴いているのを聞き、興ざめしたようですが。

いつしか したり顏にも聞え、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。
五月雨の短夜に寢ざめをして、いかで人よりさきに聞かんとまたれて
夜深くうち出でたる聲の、らうらうじく愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。  『枕草子 四十八段』

(ホトトギスは、なんといってもまったく言いようがないほどすばらしい。
いつの間にか得意そうに鳴いているのが聞こえている。
卯の花や橘に宿って、また隠れているのも、憎らしいほどすばらしい。
五月雨の短い夜に目覚めて、なんとか人より先にホトトギスの鳴き声を聞こうとしていたとき
夜が更けて鳴き出した声が気品があった美しく魅力的なのは、とても心惹かれて落ち着かなくなり、どうしようもない。)

清少納言さんの誉めようは手放しです、、、