3000年前の中国の帝王、高辛氏。
大変な聡明な人物であったが、残念なことに子供を亡くしてしまいます
7月7日のことでした。
その子が幽霊となって、人々に瘧(おこり マラリアの一種)をはやらせました。
そこで生前子供が好きだった索餅を祀って、たたりを鎮めたといわれています。
『古事類苑』より
これを踏まえて、7月7日に索餅を食べて、1年の病を除くといういわれがあります。
この索餅が、のちに素麺になって7月7日に食べられるようになった、と言われています。
はっきり言って、織女伝説とはまったく関係ありません。
マラリアが日本で流行ることもありません。
中国で7月7日に索餅を食べる風習が伝来したことから、平安時代、朝廷で模倣して、宴で供されたのでしょう。
索餅とやら、形状や食べ方等が、はっきりしません。
索餅
索餅は、麦索(むぎなわ)とも言う。
『釈名』によると、索餅も形状が索であることから、名前がついたとあります。
餅は、中国語でピン。小麦粉の加工品を指します。
日本語の餅(もち)とは、意味が違います。
材料
索餅は、小麦粉一石五斗と米粉六斗と塩五升で六百七十五藁が得られる。
粉一升では、四藁半を得られる。『延喜式33』より
小麦粉と米粉を約3:1の分量でまぜ、塩を加えています。
そして、道具類を見ると、水瓶、お櫃、臼、杵、刀。他、乾燥させるための籠、竹、薪などがあります。
手束索餅では、小麦、米粉、塩のほかに、醤・味醤・酢が用いられています。
余談ですが、中国では南宋時代の『居家必要事類全集』に索麺の作り方が出てきます。
粉と水と油と塩をこねて延ばして乾かすという、現在の手延べ素麺の作り方にそっくりだそうです。
現在の素麺の祖は、索餅ではなく、南宋の索麺の方ではないか、という説が有力です。
しんこ菓子、すあま の索餅
索餅 〈さいぺい さくべう さうめい 聰敏〉
索餅 今の索麵とは異なる也。
形は京では、白糸。
美濃邊では、しんこと言う類である。
江戸では、よりみづと言う。
細長くて、捻った形である。
嘉祥の御菓子の中に有り。
膳部家の説も同じだと、高橋若狹守も言っている。大膳式のは、米粉、小麦粉、二品で作るように見える。
索餅と手束索餅と二種類ある。
新粉のさくへいというか?『類聚名物考 飮食二』より
『類聚名物考』は江戸時代の書物です。
江戸時代、索餅と索麺は違うと書いてあります。
白糸餅、しんこ菓子、よりみずは、上新粉(米粉の一種)を水で捏ねて蒸したお菓子で、関東で言う すあま のことです。
形は、捻った形だとあります。
江戸時代、索餅という名前の別のお菓子が登場したようです。
7月7日に素麺を食べるのは?
七夕には西瓜を賞玩す。
一統に冷索麺を食ふこと江戸と同じ。
燒物にはかますを用ふ。
飯の菜にはおしなべて天不羅を用ふ。『浪花の風』より
江戸時代に、大坂町奉行に在職した久須美祐雋の随筆です。
大阪に転勤になり、江戸との違いを書いています。
スイカと冷やし素麺。
カマスの焼き物と天婦羅。
いいメニューですね。
平安時代のやたらとゴージャスな干物三昧も悪くはないですが。
お中元の起源は、七夕から
尾張中納言殿、同、紀伊中納言殿、同、水戸宰相殿、〈黄金壹枚、刺鯖二百刺、〉松平加賀守〈◯中略〉
『徳川年中行事』より
江戸時代、大名家や徳川御三家から将軍に献上する七夕の宵(旧暦7月6日)のお祝いに「刺鯖」がありました。
刺鯖とは、生サバを背開きにて塩干しにしたものです。
後に、サバの代わり(サバ代)に金銀を献上するようになりました。
サバ代の進物から、今日のお中元の習慣ができました。
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