後徳大寺左大臣
ごとくだいじのさだいじん
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる
ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
意訳 |
ほととぎすが鳴いた方向を見てみると、ただ有明の月が、空に残っているだけだったよ。 |
歌の種類 |
夏 『千載集 夏歌三161』 |
決まり字 |
ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる |
語呂合わせ |
ほととぎすはタダ(ほととぎすは ただ) |
人物
後徳大寺左大臣(1139年-1192年2月1日)
藤原実定。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿、歌人。
叔父に、藤原俊成。
従兄弟に藤原定家。
待賢門院堀河が仕えていた待賢門院は、実定の祖父の妹。
西行は実定の祖父に仕えていたため、親しい。
眺めた先に残っていたもの
暁聞郭公といへる心をよみ侍ける 右大臣
『千載集詞書』より
(夜明けに、ホトトギスの声を聞くという気持ちを詠みました。)
ホトトギスを「郭公」と書くのは、誤用です。
平安時代中期に書かれた辞書『倭名抄』に、「ホトトギス、今の郭公なり(保度度木須、今之郭公也)」とあります。
現代でいうと、「郭公、今のホトトギスなり」ですが。
中国の「郭公」を、日本のホトトギスのことと勘違いしての誤用と思われます。
この歌は、右大臣(みぎ の おほいまうちぎみ)とありますので、実定が右大臣に就いていたときの歌となります。
後徳大寺左大臣 実定 年表
2歳 | 1141年 | 崇徳天皇譲位。近衛天皇即位。 |
16歳 | 1155年 | 近衛天皇崩御。後白河天皇即位。 |
17歳 | 1156年 | 保元の乱(朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変) |
18歳 | 1158年 | 後白河天皇譲位。二条天皇即位。 |
20歳 | 1159年 | 平治の乱(院近臣らの対立により発生した政変。廷臣共倒れで平氏政権の成立の始まり) |
23歳 | 1162年 | 実定、中納言に昇進 |
25歳 | 1164年 | 実定、権大納言に昇進 |
26歳 | 1165年 | 二条天皇譲位。六条天皇(0歳7ヶ月)即位。実定、官位を飛び越えられ、権大納言を辞す。相手は平清盛の次男宗盛説、藤原実長説などあり。 |
29歳 | 1168年 | 六条天皇(4歳)譲位。高倉天皇(7歳)即位。 |
32歳 | 1171年 | 平清盛の娘徳子、入内。 |
38歳 | 1177年 | 鹿谷の政変(平家打倒の陰謀発覚事件)。安元の大火。実定邸も被害にあう。実定、大納言に還任。厳島神社参拝で平清盛に気に入られたためか? |
39歳 | 1178年 | 実定、左大将に就く。 |
40歳 | 1179年 | 治承三年の政変(平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件) |
41歳 | 1180年 | 安徳天皇(平清盛の孫)即位。以仁王の謀反。源頼朝、木曽義仲、挙兵。 |
44歳 | 1183年 | 木曽義仲、入京。実定、内大臣に昇進するも喪中のため職務に就けず、松殿師家(11歳)に貸す。 |
45歳 | 1184年 | 木曽義仲、討たれる。義仲と組んでいた松殿基房、師家父子、失脚。実定、内大臣に就く。 |
46歳 | 1185年 | 平家滅亡。文治地震。京都、激震。 |
47歳 | 1186年 | 実定、右大臣に昇進。 |
50歳 | 1189年 | 源義経、撃たれる。実定、源頼朝の奏請で議奏公卿、左大臣に昇進。 |
51歳 | 1190年 | 実定、左大臣を辞任 |
52歳 | 1191年 | 実定、出家。詩歌管絃,芸能に力を入れ、歌合などを催す。 |
53歳 | 1192年 | 実定、死亡。源頼朝、征夷大将軍に任官。鎌倉幕府の成立。 |
実定は、右大臣の長男として生まれました。
実定の順調な出世を見ると、まるで平穏な時代ようです。
しかし実定が生きた時代は、血で血を洗うような血縁者同士の争いと、暴力や残虐な報復を繰り返す武士の時代への移行期でした。
この歌が詠われたのは、実定が右大臣の時とありますから、47歳から50歳くらいにあたります。
かつての都は、政治の中心から外れて廃れる一方です。
戦乱や、大地震、大火での被害も甚大でした。
若い実定を出家を決意するまで追い込んだ平家は滅亡し、かつてのライバル、平宗盛は斬首となりました。
50歳になろうとする実定が、ホトトギスに声に引かれて、見上げた先にあったものは。
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる
「残っていただけだったよ」に、言いようのない淋しさを感じます。
読み上げ
080 待賢門院堀河 長からむ | 082 道因法師 思ひわび |