皇太后宮大夫俊成
こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
よのなかよ みちこそなけれ おもいいる やまのおくにも しかぞなくなる
意訳 |
世間では、つらいことから逃れる道が、ないのだと、思いつめていた。なのに、逃げ入った山奥でも、悲しげに鳴く鹿の声が、聞こえてくるのか。 |
歌の種類 |
雑 『千載集 雑歌中1151』 |
決まり字 |
よのなかよ みちこそなけれ おもいいる やまのおくにも しかぞなくなる |
語呂合わせ |
世の中よ、山の奥(よのなかよ やまのおく) |
人物
皇太后宮大夫俊成(1114年-1204年12月22日)
藤原俊成。
息子に藤原定家。
養子に寂蓮。
公家・歌人。
息子の定家とともに、御子左家を歌道の家として確立する。
師は藤原基俊、源俊頼。 弟子に定家、寂蓮、良経、式子内親王がいる。
『千載和歌集』の編者。
百首の和歌を詠うのは 試金石
述懐百首よみ侍ける時、鹿の歌とてよめる
『千載集 詞書』
(『述懐百首』を詠んだときに、鹿の歌として詠んだものだ。)
俊成、27歳の作です。
『述懐百首』は、俊成が『堀河百首』(1104年頃、堀河天皇に献詠した百首歌)の歌題に沿って、和歌を百首詠んだものです。
ちなみにこの『堀河百首』を俊成は息子の定家が二十歳の時に詠ませています。
息子の歌才に感涙したと言われています。
俊成の教育パパの顔と親馬鹿の顔が錯綜します。
しかし、これは、俊成自身の経験によるものです。
俊成の歌壇デビューにも、百首歌が大きく係わっていました。
当時の歌壇のパトロンであった藤原為忠が企画した「丹後守為忠朝臣家百首」に、俊成(19歳)も参加したのです。
その2年後には、崇徳天皇の『久安百首』に参加。
着実に歌壇での地位を高めていったのです。
読み上げ
082 道因法師 思ひわび | 084 藤原清輔朝臣 ながらへば |