普及に明治時代までかかった最高級手織り機は、
5世紀既に渡来していた

日本やアジア各地に残る民具の織機をみると、大きく3種類に分けることができます。

①原始機(げんしばた)

機台を持たず、柱などに固定した経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)を入れて、腰と体で織ります。

原始機

②地機(じばた)

柱と板を組んで機台をつくり、経糸は腰当を使って緊張させ、緯糸を通すための場所を作るための器具を足引きと呼ぶ綱を足で引きます。

地機

③高機(たかはた)

機台にすべて固定されている織機で、緯糸を通すための場所を作るために、器具を踏木(ふみぎ)で上下させます。筬(おさ)を使って、緯糸を打ち込みます。

高機

古墳時代中期には筬(おさ)をもった織機(おそらく高機)が渡来人によってもたらされていたのでしょう。
しかし、他の大多数には筬を使用して織った痕跡は認められません。
このことは、有筬の織機を有していたのは一握りの集団だったこと、また一般では杼(ひ)を用いる織機を使い、絹織物や麻布を織っていたことを示しています。
滋賀県正源寺遺跡より出土した布巻具は、共伴遺物から古墳時代後期初頭の木製品ですが、現在残る民具の高機布巻具とほぼ同じ形をしています。
大阪府茄子作遺跡(古墳時代中期)から出土した織機部材は、大きさや使用痕から、民具高機のカエシに相当する部材と考えられます。
ともに渡来系の遺物を多く持つ集落跡から出土しました。

(財)大阪府文化財センター「シリーズここまでわかった考古学はたおりの歴史展-古代の織物生産を考える-」より

※上記の織機の図、記事の内容、共に大阪府文化財センター様のご厚意により掲載しております。無断転用はご遠慮下さい。

絹を織る機織り機の高機が近畿を中心に五世紀ごろの遺跡から発掘されています。

奈良時代中期まで、高級な絹織物は天皇や一部の権力者に独占されていました。
その貴重さゆえに、神への奉げ物となり、機を織ることが祭儀となったのだと思います。

その後、高機が日本全国に広がるのは明治時代中期ごろまでかかりました。
高度な技術が、織り手と、織機製作に必要とされたためと考えられます。

機台つきの高機をタナバタと呼んだのではないでしょうか

神に奉げる織物は、神にふさわしい高級なものでなければなりません。
そのため、高級な織物を織る織女をも、神格化されたり、神の妻の地位についたものと思われます。

神への織物は、絹や麻が用いられました。
前述の天棚機姫神が織った神御衣は、和衣(にぎたえ)と言い、細かい織り目の絹の織物です。

神服織機殿神社
N yotarou氏撮影 ウィキペディアより

三重県松阪市にある機殿神社では、伊勢神宮の天照大御神に供える御衣を織り、毎年5月と10月に神御衣祭(かんみそさい)行っています。
絹織物(和妙(にぎたえ))と麻の織物(荒妙(あらたえ))の御衣を奉ります。
上の写真は和妙の奉織の様子です。

八尋機屋を建てて天棚機姫神の孫の八千々姫命に、大御神の御衣を織らせた。

『倭姫命世記』より

この機屋の末が機殿神社だと伝えられています。
1079年現在の機殿神社の場所に移転し、途中中断した時期があったが、現在に続いています。

神御衣を織る織機は、当時の最高級織機で織らねばなりません。
高機(たかはた)こそが、構造・機能の面においてもっとも進歩した手織り機だったのです。
現在、機殿神社で使われている機織り機の様子は、上の高機の説明図に酷似しているように見えます。
そして、見たとおり棚のような形状の機です。
地機や、原始機は、棚と表現されることはないでしょう。

機(はたもの)のまね木持ち行きて天の川 打橋渡す君が来むため
(機織り道具のマネキを持って行って天の川に内仮の板橋を架けます。あなたが渡っていらっしゃるために。)

『万葉集 2062』

マネキとは機織りの下部にある二枚の板で、それを踏んで縦糸を上下させるものです。
マネキのある機は、高機しかありません。

この歌は、当時貴重品だった高機とそれを使う織女を、実際に知っている人の七夕歌なのです。

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