かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
(七夕の夜、天の川にカササギがかける白い橋。
宮中の渡り廊下に降りた霜の白さを見ると、夜も更けたと思われるよ。)百人一首 歌番号6 大伴家持

冬、寒い夜
宮中で、大伴家持は外を眺めます。
 奈良では、冬の1月から2月ごろにかけてのみ、夜半から霜が降り始めます。
 普段なら黒々と闇に沈む廊下が、霜で、白く浮かび上がるのを見て、美しいと思ったのでしょう。
 まるで、異国の伝説に出てくるあの白い橋のようだ、と思ったに違いありません。
万葉歌人大伴家持が見たままを素直に詠んだ歌
 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
空は見上げていません
霜が降りるくらいですから、空は晴れて天の川もよく見えていたことでしょう。
 しかし1月や2月では、織女星も牽牛星も、カササギの星座も既に沈んでおり、夜空にはいないのです。
 たとえ空に残っていたとしても、大伴家持には、どれがカササギという見たこともない鳥の星なのかは分からなかったのです。
大伴氏は代々続く貴族であり、知識階級の人です。
 唐から入ってくる最新の文化を知る機会がある立場にいました。
 それでも、星座の知識は、まだ一部の専門家だけのものでした。

 N yotarou氏撮影 ウィキペディアより
七夕(しちせき)とタナバタツメの伝来
七夕の伝来は、大伴家持がカササギの歌を詠んだ8世紀よりずっと以前、遅くとも5世紀ごろだと思います。
 なぜなら5世紀には、渡来人たちによって織女と高機(たかばた)が伝来してきているからです。
 中国での七夕の始まりは紀元前に遡ります。
 5世紀に渡来した織物の技術者たちは、異国で生活を支えるための技術の維持・向上を誰よりも願ったはずです。織女星に裁縫の上達を願う祭を、彼らが蔑ろにしたはずがありません。
七夕祭りは5世紀、織女と高機と共に伝来したのです。
伝来した高機は、棚に似た大きな構えの織り機でした。
使いこなすには高い技術が必要で、そのための織女も一緒に渡来してきています。
 この高機こそ棚機を指し、織女たちを、棚機津女(タナバタツメ=棚機の女)と呼びました。
非常に貴重な織物は、王朝の威信の表れとして、朝廷に独占されていました。
 美しい織物は、神に奉げる物で、それは神の子孫である天皇の手で奉げるべきものだと考えたからです。
 出来上がった織物だけでなく、織物の技術、機、職人たちまでもが当然、朝廷の管理下にありました。
6世紀、仏教が伝来します。
権力者たちは仏教による統治を試みるため、急速な布教を進めました。
 日本古来の神々への信仰とあるときは対立し、あるときは融合しながら、仏教がこの国に浸透していきました。
この時点では七夕(しちせき)はまだ渡来人集落の風習の中にしか息づいてはいなかったものと思います。
 しかしこの後、七夕もまた権力者に利用されてゆきます。
 最初は持統天皇の飛鳥時代から平安時代にかけて、天皇の権力を具現化するものとして。
 二度目は江戸幕府が全国を平定した証として、民衆一斉に祝う五節句の一つとして。
七夕(しちせき)の宴
7世紀になると、宮中では七月七日に七夕の宴を行いました。
 唐王朝で華やかに催される乞巧奠という宮中行事に習って、大和王朝の威信を示すために。
持統天皇の七夕の宴が行われた吉野離宮で、七夕にちなんだ漢詩が、唐の漢詩を模して宮中の詩人によって作られました。
 カササギを七夕詩のモチーフに使う詩人もいました。
 和歌でも柿本人麿や大伴家持ら、宮中に出入りしていた歌人たちが、二星の恋を詠い上げました。
 万葉集の和歌の織女をタナバタツメと訓じています。
 織女の職業が機織りなのですから、当然タナバタツメと訓じたのでしょう。
歌人たちは、七夕伝説の織女を、現実の機織り職人の女たちを重ね合わせることで、より想像力を掻き立てられました。遠く故国を離れ海を渡って、この国に機を織りに来た女性への同情と、触れることのできない機屋にいる女性への憧れも伴いながら。

終わりに
「カササギの」最終話で、在原業平がタナバタツメに一夜の宿を借りようとする話を紹介しました。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
(狩りをしていて、日暮れになりました。棚機津姫に宿をお借りしよう。
天の河原にわたしは来ているのだから。)
天野川という、夜空の天の川と同じ名を持つ川のほとりでです。
 同行の惟喬親王は業平の歌に返歌しようとしますが、何度も口のなかで歌を反唱しながらも、なかなか返歌を返せません。
 そこで、惟喬親王のお供の紀有常が代わりに詠みます。
一年に ひとたび来ます 君まてば 宿かす人も あらじとぞ思う
(棚機津姫は、一年に一度会いに来られる方を待っているので、
君に宿を貸してくれることはないと思うよ)
業平が一夜の宿を乞うたのは、はたして、天の川の辺で、一年に一度会いにくる牽牛を待ちながら神の衣を織るタナバタツメなのか。
 それとも、天野川沿いの渡来人の名鈴作村で、遠く故郷を離れ、大和王朝の権威のために機を織るタナバタツメだったのか。
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