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073 前中納言匡房 高砂の

前中納言匡房前中納言匡房
さきのちゅうなごんまさふさ

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ
たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん

意訳
高い山の峰にもやっと桜が咲いたよ。里の霞よ、どうか立たないでおくれ。花が見えなくなるから。
歌の種類
春 『後拾遺集 春上120』
決まり字
たかさごの おのえのさくら さきにけり
やまのかすみ たたずもあらなん
語呂合わせ
 鷹と山(たか とやま)

人物

前中納言匡房(1041年-1111年12月7日)
大江匡房。
曾祖母は赤染衛門。
公卿、儒学者、漢学者、歌人。
『江家次第』の著者。

「遠くの山を眺めた気持ち」を、詠む

内の大まうち君の家にて、人々酒食うべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる
  『後拾遺集 詞書』

 内の大まうち君は内大臣藤原師通のことで、匡房に学問を学んでいました。
高砂は地名ではなく、高い山の峰のこと。
外山は深山の反対の意味で、人里に近い山のことです。
 藤原師通の屋敷で人々と酒を呑みながらということなので、実際に山を望んでの歌ではありません。

神童

予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり
 『暮年記』

 4歳で書物を読み、8歳で『史記』や漢籍に通じ、11歳で漢詩を詠んだ。
世の中の人はわたしを神童と言った。

 匡房の秀才ぶりには逸話がいくつかあります。

關白賴通創平等院于宇治,與師房往而歸度大門。
賴通問師房「寺門向北,古亦有諸?」
曰「不知。」
匡房尚幼,從在後,曰「天竺那蘭陀寺、震旦西明寺、本邦六波羅蜜寺,皆向北。」
賴通歎賞之。
 『前賢故實』

 関白藤原頼通が宇治に平等院を建立する際の話です。
頼通が右大臣源師房と大門へ行き帰りしたとき、「門を北向きに建てる前例は?」と聞くと
師房は「分からない」と答えました。
匡房は若く(16歳)、まだ無冠でしたので、師房に学問を習得中でした。
師房がその匡房に問うと、
「天竺の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅蜜寺」と言い、頼通を感嘆させました。

雁 大江匡房

 また、『古今著聞集』に、こんな話もあります。

 後三年の役のことです。

 源義家ら一行は、金沢を攻めるための行軍中でした。
雁が刈田に降りようとして、急に驚き列を乱し飛び去りました。
それを見た将軍義家は、馬を止めて
「以前匡房公が教えてくださったことがある。軍が野に潜むとき、雁は列を乱す。この野に必ず敵が潜んでいる、と」
 からめ手の兵で囲むぞ、と命じて、軍を分けて三方から取り巻くと、案の定300余騎が隠れていました。
両軍は入り乱れ、激しく戦いました。
 しかし、先に察知した義家軍が勝ちました。
義家は「匡房公の一言がなければ、危なかっただろう」といいました。
 義家が匡房に兵法の教えを請うきっかけになったのは、関白藤原頼通邸でのことでした。
義家の従者が、匡房が義家のことを「器量はかしこき武者なれども、猶軍の道をばしらぬ」とつぶやいたのを、偶然聞いたからでした。
 従者がそれを義家に告げ口したところ、義家は「理由があるのだろう」と言って、匡房に話しかけ、弟子になったということです。
 義家24歳。匡房22歳のことです。

読み上げ

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072 祐子内親王家紀伊 音に聞く 074 源俊頼朝臣 うかりける
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