入道前太政大臣
にゅうどうさきのだいじょうだいじん
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり
はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
意訳 |
桜の花を誘うように、嵐吹く庭。降り落ちるのは、雪のような花ではなく、本当は年を経て老け衰えてゆく、わたし自身なのだなぁ。 |
歌の種類 |
雑 『新勅撰集 雑歌一1052』 |
決まり字 |
はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり |
語呂合わせ |
花誘うふり(はな さそうふり) |
人物
入道前太政大臣(1171年-1244年10月2日)
西園寺公経。
平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿、歌人。
鎌倉幕府との強い結びつきから、太政大臣にまで上り詰める。
西園寺家の祖。
家名は、西園寺を建立したことによる。
妻は源頼朝の姪。
関白二条良実の祖父。
後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父。
四条天皇・後深草天皇・亀山天皇の曾祖父。
鎌倉幕府4代将軍の祖父。5代将軍の曽祖父。
姉は藤原定家の後妻であり、定家の義弟にあたる。
光源氏と庭
公経の家名西園寺は、彼が北山に建立した西園寺に由来しています。
北山は名前の通り、都の北西の外れにあります。
洛中で亡くなった人々の葬送の地でもありました。
ここは他人の領地であったのですが、公経は自身が持つ他の領地を交換して手に入れて西園寺を建立しました。
なぜか?
公経は夢を見たのです。
『源氏物語』の主人公、光源氏の夢を。
物語の若紫という章で、光源氏が病気になり、加持祈祷のため北山のなにがしの寺に行き、ヒロインの紫の上(当時は10歳の童女)と出会う場面です。
寺へは、山道を歩きます。
霞の立ち込める山道には、都では既に散った桜が今盛りを迎えています。
寺の庭には川が流れています。
源氏の寝室のために、流れのほとりにかがり火を焚き、灯篭を吊ります。
滝の音が誦経の声と和して響き、源氏は悩みから解放されて涙するのです。
と、こういうシチュエーションのシーンなのですが、すてきですよね。
公経は、夢に見た光源氏にちなんで寺を建てたようです。
たいへんすばらしいお寺だったようで、『増鏡』にはあの藤原道長の法成寺にも勝ると書かれています。
・もともと田畑だったところを掘り起こして庭園を造りました。
・山のたたずまいは木深く。 池の水は豊かに。まるで海のように。
・そして、滝。滝も作っています。 嶺より落ちる滝の響きも、本当に涙を催すかのよう、と『増鏡』は描写しています。
・桜も植えねばなりません。もとは古い常緑広葉樹林のところに、若木の桜を一面に移植させます。
山ざくら 峯にも尾にも 植えおかむ みぬ世の春を 人や忍ぶと
山桜を峯にも山裾にも植えておこう 後世の人がその桜の咲く春を懐かしく忍ぶように
これで、完璧です。
西園寺建立時、公経、54歳。
公経は、『源氏物語』の研究家である定家の義弟であり、パトロンでもありました。
この「花さそふ」の歌が、公経が何歳の時に詠われた歌なのかはわかりません。
後世の人のために移植した若木の桜は、その花で嵐を誘って庭に降り積もっています。
公経は古びてゆくわが身を感じながら、それを見つめています。
動乱の時代を生き抜きました。
鎌倉方に近しいため、承久の乱前夜には朝廷方によって監禁されました。
後鳥羽上皇を裏切った奸臣と言われながらも、乱の後の京都政界をまとめ上げて、王朝文化最後の栄華を極めた公経。
しかし、残念ながら公経の願いは叶いませんでした。
公経の作った夢の西園寺は今はありません。
室町時代には鹿苑寺金閣に場所を譲り、現在に至ります。
ただ、公経の子孫である西園寺公望のゆかりの立命館大学がその地に存在しています。
そして、同校は、史上最年少で3人目の永世クイーンとなった楠木早紀さんの出身校です。
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