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099 後鳥羽院 人も惜し

後鳥羽院後鳥羽院
ごとばいん

人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうゆえに ものおもうみは

意訳
人々を愛し、またある時は、人々を恨めしく思う。つまならい世の中だと、思うからこそ、わたしは人々について、悩むのだ。
歌の種類
雑 『続後撰集 雑歌1202』
決まり字
ひともおし ひともうらめし あじきなく
よをおもうゆえに ものおもうみは
語呂合わせ
 人もよおぉ~(ひとも よおぉ~)

人物

後鳥羽院(1180年8月6日-1239年3月31日)
高倉天皇の第4子。第82代天皇
後白河天皇の孫。安徳天皇の異母弟。
『新古今和歌集』は後鳥羽院の勅命によって編纂される。
1221年承久の乱で敗れ、隠岐に配流される。

多才多趣味の後鳥羽院に付き合うのは大変!

後鳥羽院の和歌の才能は定家も認めるところでしたが、それだけにとどまりませんでした。

スポーツでは小弓、蹴鞠、笠懸、狩猟、相撲、水泳をこなし
競馬、闘鶏、賭弓などの賭け事を楽しみ
遊女、白拍子とあそび
別荘、造園を造りまくり
管弦に通じ
囲碁、双六に耽りました。

宮中の行事に参加し、施政者に顔を見せることは、当時の下級貴族が出世するためには必要不可欠なことでした。
しかし定家は、和歌の催し以外は心底苦手なようで、連日連夜、延々と続く後鳥羽院主催の行事に疲弊していたことが日記『明月記』に記されています。

「病気と偽り、すぐに逃げ出した。夕方になる前には家に帰って沐浴し、倒れ臥した」

建仁2年3月のことでした。
ちなみに行われた行事のスケジュールは以下の通りです。

11日~24日 午前11時ごろから日の暮れまで 競馬
26日 夜明け前から午後11時まで 東遊びなどの舞楽と競馬
27日(病欠)
28日早朝から 神事の後、東遊びなどの舞楽

28日は結局早退ということになります。
定家は、最初の13日間ぶっ通しの競馬観戦(それも3月の寒空の下!)の時点でも一度逃げ出しているようです。

読み上げ

098 従二位家隆 風そよぐ 100 順徳院 ももしきや

百人一首 初めてかるた

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