左京大夫道雅
さきょうのだいぶみちまさ
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな
意訳 |
今は「もう あなたのことはあきらめます」とだけでもいいから、人伝てではなく、直接、伝えたいのです。 |
歌の種類 |
恋 『後拾遺集 恋三750』 |
決まり字 |
いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな |
語呂合わせ |
今は一つ(いまは ひとつ) |
人物
左京大夫道雅(992年-1054年7月20日)
1016年斎宮退下直後の皇女当子に通い三条院の怒りを買い、1017年出仕差し止め処分になる。
その後、粗暴無頼の奇行で官位が下がり続ける。
しかし、晩年は静かに風雅の道に生きた。
許されなかった恋の歌
伊勢の斎宮わたりよりまかり上がりて侍りける人に 忍びて通ひけることを、
おほやけも聞こしめして、守り女などつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、
よめり侍りける『後拾遺集』詞書より
(伊勢神宮の斎宮が任を終えて京へ上がってこられた人に隠れて通っていたことが、彼女の父帝にばれて、帝が彼女に見張りの女をお付けになられ、もう隠れて通うことができなくなってしまったので、詠んだ歌)
伊勢神宮の斎宮が退下するは、天皇の崩御或いは譲位の際などになります。
当子内親王の斎宮退下は、三条院の譲位によるものでした。
失明を理由に、藤原道長が譲位を迫ったといわれています。
前斎宮の結婚や降嫁は少ないですが、前例がないわけではありません。
しかし、三条院は、当子内親王と道雅との恋愛は認められませんでした。
病の心細さから、愛娘を手放すことに恐怖したのかも知れません。
1017年道雅は出仕差し止めになり、当子内親王付きの女官は京から追放されます。
同年三条院、崩御。
当子内親王は母に引き取られた後、失意のまま髪を落とし、6年後に23歳の若さで死亡。
道雅は、「荒三位」「悪三位」といわれるほどの乱行を繰り返すようになりました。
読み上げ
062 清少納言 夜をこめて | 064 権中納言定頼 朝ぼらけ |