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100 順徳院 ももしきや

順徳院順徳院
じゅんとくいん

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なおあまりある むかしなりけり

意訳
宮中よ。古い屋敷の軒端に生えるしのぶ草。そんなものを見ても、古きよき時代を偲んでも、偲び切れない思いに、かられるのだ。
歌の種類
雑 『続後撰集 雑下1205』
決まり字
ももしきや ふるきのきばの しのぶにも
なおあまりある むかしなりけり
語呂合わせ
 桃、なお余り(もも なおあまり)

人物

順徳院(1197年10月22日-1242年10月7日)
後鳥羽院の第3皇子。第84代天皇
後鳥羽院の承久の乱に参画するも失敗、佐渡に配流される。
和歌を藤原定家に師事する。定家の息子為家や俊成の娘ともとも交友があった。

『百人一首』は定家死後の成立

『百人一首』は京都小倉山の山荘で藤原定家が編んだ和歌集です。
このことは定家の日記『明月記』で文暦2年(1235年)5月27日に息子為家の嫁の父親蓮生に依頼されて作成した旨の内容が記されていることでわかります。
しかし、1235年当時順徳院は「順徳院」という名前ではなかったのです。
承久の乱に敗れ佐渡に配流された時の名前は佐渡院。
順徳院の名前になるのは、崩御された7年後の建長元年(1249年)のことです。
定家は1241年亡くなっています。
この歌が「順徳院」名で記されていることで『百人一首』の成立が、定家死後のものであることがわかるのです。
『百人一首』の撰者が定家であることはほぼ定説であるとして、定家の死後、この歌を「順徳院」の名で表記した誰かがいることは間違いありません。

佐渡院から順徳院に

なぜ名前が変わったのでしょうか。
佐渡に配流され、そこで崩御されたから佐渡院。
その名で後世語られ続けることは、廃した側の鎌倉幕府としてはよしとできませんでした。
祟りを恐れたのです。

百人一首には悲劇的な最後を遂げた院がもう一人います。
崇徳院です。
保元の乱で敗れ、讃岐に配流され、その地で亡くなったのちに怨霊となった伝説の持ち主です。
院の死後、大事件が多数起こりました。

そこで、名前を讃岐院から崇徳院に改められることになりました。
「徳」は道徳の徳。よい意味で用いられる言葉です。
祟る(たたる)悪霊を、崇められる(あがめられる)徳をもった善神として敬うことで、悲劇の院の魂を慰めようとしたのでした。

ここに佐渡院が順徳院となった理由がわかります。
崇徳院の祟りの話は、後鳥羽院、順徳院の崩御当時まだ記憶に新しいものでした。
鎌倉幕府は自らが廃した二人の院の鎮魂のため、名前を変えたのです。
隠岐院は顕徳院の後鳥羽院
佐渡院は順徳院にと。

読み上げ

099 後鳥羽院 人も惜し 001 秋の田の天智天皇 

百人一首 初めてかるた

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