崇徳院
すとくいん
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう
意訳 |
流れの速い川が、岩で二つに分かれても、またその先で一つの流れに戻るように、例え、今二人が別れても、いつかは再び一緒になろうと思うのだ。 |
歌の種類 |
恋 『詞花集 恋上229』 |
決まり字 |
せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう |
語呂合わせ |
背割れ(せ われ) |
人物
崇徳院(1119年7月7日-1164年9月14日)
曽祖父は白河上皇。
父は鳥羽天皇。
母は待賢門院璋子。
在位は1123年3月18日 – 1142年1月5日
今は別れても、いつかは
崇徳院は、産まれる前から幸せの薄い人でした。
鳥羽天皇は息子の崇徳院を、叔父子と呼び、愛しませんでした。
崇徳院には、母璋子と曽祖父白河上皇との間の子ではないかという噂があったのです。
余談ですが、藤原忠実は璋子の素行に噂ありとして、長男法性寺入道前関白太政大臣との縁談を断り、白河上皇の怒りを買っています。
ともかく、白河上皇は璋子を孫の鳥羽天皇に嫁がせ、崇徳院が産まれます。
そして、崇徳天皇は5歳で、20歳で譲位させられた鳥羽天皇に代わり帝位につきます。
しかし、白河上皇の崩御すると、鳥羽上皇はさっそく23歳の崇徳天皇を3歳の異母弟を譲位させたあげく、この天皇が夭折すると、次は崇徳院の同母弟(後白河天皇)を据えました。
そして、その皇太子には後白河天皇の皇子をつけたのです。
崇徳院が、院政を継ぐ可能性は完全になくなったのです。
鳥羽上皇が亡くなったのをきっかけに保元の乱が勃発します。
敗れた崇徳院は讃岐に流され、生きながらにして悪霊となり、8年後世の中を呪いながら亡くなりました。
読み上げ
076 法性寺入道前関白太政大臣 わたの原 | 078 源兼昌 淡路島 |