前中納言匡房
さきのちゅうなごんまさふさ
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ
たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん
意訳 |
高い山の峰にもやっと桜が咲いたよ。里の霞よ、どうか立たないでおくれ。花が見えなくなるから。 |
歌の種類 |
春 『後拾遺集 春上120』 |
決まり字 |
たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん |
語呂合わせ |
鷹と山(たか とやま) |
人物
前中納言匡房(1041年-1111年12月7日)
大江匡房。
曾祖母は赤染衛門。
公卿、儒学者、漢学者、歌人。
『江家次第』の著者。
「遠くの山を眺めた気持ち」を、詠む
内の大まうち君の家にて、人々酒食うべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる
『後拾遺集 詞書』
内の大まうち君は内大臣藤原師通のことで、匡房に学問を学んでいました。
高砂は地名ではなく、高い山の峰のこと。
外山は深山の反対の意味で、人里に近い山のことです。
藤原師通の屋敷で人々と酒を呑みながらということなので、実際に山を望んでの歌ではありません。
神童
予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり
『暮年記』
4歳で書物を読み、8歳で『史記』や漢籍に通じ、11歳で漢詩を詠んだ。
世の中の人はわたしを神童と言った。
匡房の秀才ぶりには逸話がいくつかあります。
關白賴通創平等院于宇治,與師房往而歸度大門。
賴通問師房「寺門向北,古亦有諸?」
曰「不知。」
匡房尚幼,從在後,曰「天竺那蘭陀寺、震旦西明寺、本邦六波羅蜜寺,皆向北。」
賴通歎賞之。
『前賢故實』
関白藤原頼通が宇治に平等院を建立する際の話です。
頼通が右大臣源師房と大門へ行き帰りしたとき、「門を北向きに建てる前例は?」と聞くと
師房は「分からない」と答えました。
匡房は若く(16歳)、まだ無冠でしたので、師房に学問を習得中でした。
師房がその匡房に問うと、
「天竺の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅蜜寺」と言い、頼通を感嘆させました。
また、『古今著聞集』に、こんな話もあります。
後三年の役のことです。
源義家ら一行は、金沢を攻めるための行軍中でした。
雁が刈田に降りようとして、急に驚き列を乱し飛び去りました。
それを見た将軍義家は、馬を止めて
「以前匡房公が教えてくださったことがある。軍が野に潜むとき、雁は列を乱す。この野に必ず敵が潜んでいる、と」
からめ手の兵で囲むぞ、と命じて、軍を分けて三方から取り巻くと、案の定300余騎が隠れていました。
両軍は入り乱れ、激しく戦いました。
しかし、先に察知した義家軍が勝ちました。
義家は「匡房公の一言がなければ、危なかっただろう」といいました。
義家が匡房に兵法の教えを請うきっかけになったのは、関白藤原頼通邸でのことでした。
義家の従者が、匡房が義家のことを「器量はかしこき武者なれども、猶軍の道をばしらぬ」とつぶやいたのを、偶然聞いたからでした。
従者がそれを義家に告げ口したところ、義家は「理由があるのだろう」と言って、匡房に話しかけ、弟子になったということです。
義家24歳。匡房22歳のことです。
読み上げ
072 祐子内親王家紀伊 音に聞く | 074 源俊頼朝臣 うかりける |