権中納言定家
ごんちゅうなごんさだいえ
来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ
意訳 |
来ない人を待つ。わたしは、恋で、この身も焦がれる思いです。風のない夕方に、松帆の浦で、焼け焦げる熱い藻塩のように。 |
歌の種類 |
恋 『新勅撰集 恋三849』 |
決まり字 |
こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ |
語呂合わせ |
来ぬ人を焼く(こぬひとを やく) |
人物
権中納言定家(1162年-1241年9月26日)
藤原定家
平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿、歌人。
藤原俊成の次男。
寂蓮は従兄。 入道前太政大臣の西園寺公経は義弟。
歌道の家として、御子左家を大きく発展させた。
『小倉百人一首』の撰者。
勅撰集『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。
藤原家隆、式子内親王、後鳥羽院、西行、慈円、藤原良経、源実朝、俊成卿女、順徳天皇、源家長らと交流がある。
この歌の本歌
『万葉集』にある笠金村(かさのかなむら)の歌です。
名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島
松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ
海人をとめ ありとは聞けど
見に行ゆかむ 由のなければ
大夫の 心は無しに
手弱女の 思ひ撓みて
徘徊り 我はぞ恋ふる 船楫を無み
【意味】
自分のいる名寸隅(なきすみ:今の兵庫県明石市西端)の船着き場から淡路島が見える
対岸の松帆の浦には 朝凪に藻を刈り、夕凪にその藻で塩を焼く海女の乙女たちがいると聞くのだけれど
見に行こうにも 行く手立てがない
勇気も無く 心もくじけて
彷徨うばかり 焦がれるばかり
わたしには船も舵も無いゆえに
笠金村は奈良時代の歌人で、この歌は聖武天皇の播磨国印南野行幸にお供して作った歌です。
明石の海岸から見える播磨灘の景色の賛歌を天皇に捧げました。
藻塩を焼く乙女、男性にとってそんなに萌える存在なの?
奈良時代の結婚は妻問い婚。
男たちは、夜になると、女性の家を訪問し、そこに泊まり、鶏の鳴く早朝に女性の家を出て自分の家に帰る。
薄暗い屋内でしか相手の姿を見ることができません。
藻塩に用いる海藻は、海底に生えます。
そのため、藻を刈る仕事は女性の海女の役目でした。
明るい陽射しを全身に浴びて海に潜る海女たち。
せめて一目見たい!
あこがれが共感を呼び、この歌は土地への賛歌、天皇に捧げるに足る歌となったのです。
定家の歌は、この金村の歌(男性の海女たちへの歌)への反対、つまり海女から男性への歌という形をとっています。
このあこがれの海女に恋い焦がれられたい!
来ない人を待つ。わたしは、恋で、この身も焦がれる思いです。風のない夕方に、松帆の浦で、焼け焦げる熱い藻塩のように。
定家は、炎になぶられて揺らめく藻を、来ぬ男に焦がれて見悶える海女になぞらえています。
これもまた男性にとっては良いのですかね。
藻塩
残念ながら藻塩の製法は、現代には正確には伝わっていません。
現在『万葉集』などの数少ない資料から推測し、研究が進んでいます。
岩塩や潮湖のない日本では、塩は海水を蒸発させて手に入れます。
古くは浜辺で乾いた海藻の表面についた塩の結晶を掻き集めていました。
しかし、この方法では少量の塩しか取れません。工夫が必要です。
諸説あります。
- この塩吹き海藻を焼いて、灰まじりの塩を「塩」として使った。
- 塩吹き海藻を土器で海水と共に火にかけ、水分を蒸発させて塩を取り出した。
- 塩吹き海藻を海水に何度も潜らせ、高濃度の塩水を作った後、水分を蒸発させて塩を取り出した。
- 1の灰まじりの塩に海水をかけて濾してできて高濃度の塩水を作り、水分を蒸発させて塩を取り出した。
どれが本当の藻塩焼きの姿なのでしょうか。
1以外は、高濃度の塩水を作る過程の違いはありますが、蒸発させて塩を取り出すことには変わりません。
ただ、金村の歌でも定家の歌でも「凪」で藻塩を焼く、と詠われています。
風のない時間帯に藻塩を焼く必要があったのです。
なぜなら、藻を焼いてできた灰を風で飛ばされないようにするため。
藻塩焼きには、高濃度の塩水を作るために海藻を灰にする行程があった、ということになります。
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