法性寺入道前関白太政大臣
ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん
わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波
わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもいにまごう おきつしらなみ
意訳 |
大海原に船を漕ぎ出して眺めれば、遠く沖の方に、雲かと見間違えるほどの白い波が、たっていました。 |
歌の種類 |
雑 『詞花集 雑下382』 |
決まり字 |
わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもいにまごう おきつしらなみ |
語呂合わせ |
わたの原 子蜘蛛いる(わたのはら こぐもいる) |
人物
法性寺入道前関白太政大臣(1097年3月15日-1164年3月13日)
6歳のとき、大江匡房の名付により「忠通」と称する。
父は摂政関白太政大臣藤原忠実。
弟は頼長。
1158年の保元の乱では後白河天皇側に付き、崇徳院側の父弟と対立。弟は戦死、敗れた父は幽閉となる。
息子に慈円がいる。
公卿。従一位・摂政 関白・太政大臣をつとめる。
65歳で法性寺で出家。
つかの間の平安
新院位におはしましし時、海上の遠望ということをよませ給けるによめる
『詞花集 詞書』
【崇徳院が天皇の位でいらっしゃったとき、海上遠望という題で、詠み申し上げた】
1135年の内裏歌合せでの歌です。
忠通は上記したように、保元の乱で崇徳院側と対立する立場に立ちます。
この歌合いの時期は、1130年に忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮に立ったこともあり、両者の仲は平安でした。
1139年、宮中に出仕し始めた侍女兵衛佐局に崇徳天皇の寵愛が移り、翌年第一皇子を出産。
この頃から、関係に齟齬をきたし始めます。
読み上げ
075 藤原基俊 ちぎりおきし | 077 崇徳院 瀬を早み |